10月15日
本日、秋季リーグ戦最終カードの早稲田戦初戦、逆転勝利を収めることができました。
たくさんの方の声援が私達の背中を最後まで押し続けてくださった結果、サヨナラ勝ちという素晴らしい結果になったと確信しております。
本当にありがとうございました。
今年度副将を務めます岡村雄太(経4 慶應義塾)です。
熱戦直後というのもありまして、いつも以上に暑苦しく長い文章となりそうです。(と言うよりなってしまいました。)
申し訳ありません。
あらかじめご了承くださいませ。
前回の田中優作(政4 慶應義塾)とは同じチームで野球を続けて10年目になります。
高校時代、三遊間を共に守った彼との関係も、今ではノッカーと外野手という関係に変化しました。
それでもこうして同じ目標に向けて熱くなれること、私もとても嬉しく思っています。
ここまでのブログリレー楽しく読ませて頂きました。
本当に4年間いろいろなことがありました。
入部直後、山本裕哉(経4 慶應義塾)と喧嘩したこともあれば、
志木高勢に裏で岡村さんと呼ばれていたこともあったみたいです。
それでもここまでこられたのは22人の同期がいつもそばにいてくれたからです。
本当に4年間ありがとう。
本当に支えられました。
今春の就職活動中、準硬式野球部とは?という質問に、
「野球にコンプレックスを抱えた人の集団です」
と答えたのは主将の猪砂(政4 立命館宇治)でした。
高校時代の私も野球にコンプレックスを抱えた人の1人でした。
私は慶應高校軟式野球部、俗に言う「なんや」の出身です。
心の何処かに後ろめたさがありました。
多くの普通部出身の同期が硬式で苦労していました。
ミズノプロのカバンがカッコよくて。
夜遅くまで煌々と光る日吉台のナイターが羨ましくて。
私は練習がしたいのに、必死で雨乞いする硬式のクラスメートがいて。
体の大きい硬式部員をすっと避けながら廊下を歩いたり。
高校3年間、なんやであることが私のコンプレックスでした。
7年前の高校入学直後。
普通部の同期が何人も硬式野球部へと進む中、私は自分の実力に限界を感じていました。
どうしても自分が主役でいたい私は、部員100人を超える硬式野球部に入部する気にはなれず、
アイスホッケーやトランポリンをしてみたり、
カラオケに入り浸ってみたり、
そんな日々を過ごしていました。
「体が小さく、パワーのない自分に野球で輝く場所はない」
「野球ってそんなに面白いものでは無かったな」
そう思っていた時、「暇ならキャッチボールでもしに来いや」と友人に誘われて行ったのが軟式野球部でした。
キャッチボールをしに来ただけのはずなのに5キロ走を走らされ、不貞腐れながら1時間かけて完歩し、
「軟式なのにこんなに走らされるなら面白くない、辞めよう」
そう思いながら一列ノックを受けていた私のところに、
白髪のおじいさん監督が近づいてきました。
頑固なおじいさん監督が毎日いる、とは聞かされていましたが、初めて会った日に1時間も長話をされるとは思ってもいませんでした。
何を話されたのか全く覚えていないのですが、
きっと「守れる内野手が足りないから入部してくれ」といった内容だったと思います。
春の県大会が終わるとそのおじいさんは私に「練習試合に連れて行くから普通部のユニフォームを持ってこい」と言いました。
人工芝のグランドで汚れることなくボールとバットを使って遊べれば十分!
そう思っていた私は丁重にお断りしたのですが、
まったく聞き入れてもらえず、
しぶしぶ週末に千葉の奥地まで行ったのを覚えています。
その練習試合の2試合目にスタメンで使ってもらって以降、
高校生活では打てなくても守れなくても全ての試合に出させて頂きました。
野球は勝っても負けてもとても楽しいものでした。
でも高校時代は達成感より悔しさが強かった。
今日もたくさん応援に来てくれた高校時代の仲間には、今でも申し訳ない気持ちでいっぱいです。
その悔しさが大きな糧となり、
野球を続けるエネルギーになりました。
月日は流れ、気が付くと私は準硬式野球部の最上級生になっていました。
どうしても負けられない春の早慶戦、1点負けの2死満塁。
誰もが岡村に代打をだせ!と思っていたあの場面。
進むべき道を見失い、路頭に迷っていた私を野球へ再び引き込んでくれたそのおじいさん監督は、
私にヒッティングのサインだけを送り、託してくれました。
試合後のスポーツ報知のコメントに「使ってくれた監督に感謝したい」といったようなことを話したところ、いろんな人から「ゴマをするのが上手いな!」と笑われました。
でもあのコメントは、すっと出てきた紛れもない本音でした。
だからこそ、
この秋、何としてでも優勝したいんです。
高校で2年間、大学で3年間、
いつもグランドに来てくれた、
このチームを変えてくれた、
僕を変えてくれた、
織戸監督を胴上げしたいんです。
それが監督にできる最初で最後の恩返しです。
明日、勝利すれば優勝が決まります。
野球の神様は僕らに最高に面白いエンディングを用意してくれました。
きっと「あとは自分たちの力でハッピーエンドに変えてみろ」と笑っています。
こんなエンディングにたどり着くまで、
本当にたくさんの方々にお世話になり、支えて頂きました。
毎試合応援に来てくださり、試合が終わると必ず声をかけてくださるOBのみなさん。
息子はとっくに卒業したはずなのに中津川まで応援に来てくださる稲山さん(H27卒)のお母さん。
半分以上、いや8割以上が誰のご父兄なのかわからないのに、たくさん声をかけてくださるご父兄のみなさん。
チーム改革の為ご指導くださいました山本部長。
熱心な指導でチーム打率を飛躍的に向上させてくれた嶋川コーチ。
現役時代そんな嶋川コーチの打席でホームスチールを試み憤死した矢田コーチ。
誕生日プレゼントのキャップを家の中でも大事に被ってくださる先輩や、
下手くそな自分に手取り足取り指導してくださった先輩方。
小さい頃、休みの度にキャッチボールをしてくれた親父。
親父がキャッチボールしか野球の練習方法を知らなかったおかげで、
16年間スローイングに苦労せずやってこられました。
小学生の頃からいつも試合を見に来てくれ、私が落ち込んでいる時もそっと支えてくれた、最近涙もろくなった母。
16年間何不自由なく、楽しく野球が出来ました。
バッティングセンターに行くと、私だけにではなく知らない小学生にもアドバイスしてしまう弟。
おまえのアドバイスがあったから打てました。
私達のプレーを陰で支えてくれた、縁の下の力持ち学生スタッフとマネージャー。
たくさんの方に支えられ、ここまでやってくることができました。
大変お世話になりました。
本当にありがとうございました。
そして、最後に、ここまでついてきてくれた後輩へ。
チャンスはいつか回ってくる、そんなことを思っていたら4年間あっという間に終わってしまいます。
部員80人を超えるチームで試合に出て活躍することはそう簡単な事でありません。
私自身も4年間でレギュラーになることはできませんでした。
「環境は周りが整えるものじゃない、自分が整えるもの」
「周りが英語しか話せないなら、日本語を覚えさせればいい」
これは川崎宗則選手の言葉です。
私は、チャンスは待つものではなく、自分で作るものだと思ってここまでやってきました。
内野手として試合に出られないなら、外野なら出れるんじゃないか、そう思って外野手になりました。
内外野ふたつのグローブを持って行き、シートノックをセカンドとセンター両方で受けていた時期もあります。
谷上さん(H28卒)や杉本さん(H28卒)が塁に出れば、「代走いきますか?」と監督に聞きに行きました。
監督から言われる前にベンチを出ていたこともあります。
場違いなのを承知で六大学のグアム遠征にも連れて行ってもらいました。
そうやってもらった数少ないチャンスを生かすため、
必死で準備して必死にプレーしてきました。
何とか出塁できるようになろうとひたすらファールを打ったり、
足が速くなりたくて往復30キロを毎日自転車で通ったり、
強い打球が打ちたくて夜な夜なジムに通ったり。
自分が打席に立つとしたら試合の終盤だと考え、
リリーフのピッチャーを中心にタイミングを合わせ、
ベンチにいる時から10人目の選手として試合に出ている感覚でいました。
試合で打席を貰えれば何とかしたいという一心でピッチャーに対峙し、
ランナーで出れば何とかしてホームベースを踏もうと思っていました。
その結果、高校最後の年の公式戦、
1本もヒットを打てなかった9番バッターが、
バットでYahoo!ニュースにのることができました。
自分のエラーで高校野球を終わらせてしまった私が、
試合後にたくさんの人からねぎらいの言葉をかけられるようになりました。
相手の一塁手が、
代走の私が走れないようにズボンを引っ張ってくるようになりました。
「スタメンで試合に出るんだ!」
みんながそう思ってこのチームに入ってきたと思います。
「代走の切り札になりたくて」
とか
「守備固めになりたくて」
なんて思って入ってきた人はいないと思います。
だから、
自分の可能性を信じて、
環境のせいにせず、
最後まで向き合って欲しい。
現状に満足したらそこまでです。
その先にきっと素敵な明日があると信じています。
慶應義塾の黄金時代を見せてください。
応援しています。
そして、いままでたくさんの思い出を本当にありがとう。
可愛いくて、うるさくて、人懐こい後輩たちに囲まれて過ごせた日々を誇りに思います。
最近「やっぱおっかむだわ!」とうるさい田口…商3 慶應義塾)。
最後まで敬語の使い方を理解してくれなかった有賀(商3 慶應義塾湘南藤沢)。
うるさいけど一番チーム想いな油科(環3 川和)。
練習量だけは半端無い石渡元就(経2 多摩大目黒)。
話の長い杉浦(政2 慶應義塾)。
常にケロッとしている頼もしい市野澤文太(商1 慶應義塾)。
いちいちうるさい下川(経1 慶應義塾)、出町(経1 慶應義塾)。
入部した頃はどうなってしまうのか心配でしかたなかった櫻井(経3 Dwight School London)。
なぜかいつでもどこでもそばにいる祥輝(文2 洛星)。
底抜けに明るい泉(政1 慶應義塾)。
名前を挙げだしたらキリがありません。
素敵な時間をありがとう!!
今なら言えます。
「なんや」でも「準硬」でも、
ここまで野球を続けてきて良かったと。
野球のおかげで成長できました。
野球のおかげでたくさんの仲間ができました。
野球のおかげでたくさんの思い出ができました。
そしていよいよブログリレーも最終回。
主将、猪砂雄介(政4 立命館宇治)の登場です。
彼とは全体練習になかなか入れなかった1年生の頃から、高校が練習を終えた夜、室内練習場でバッティング練習をするようになりました。
今ではリーグを代表する投手となった彼の球を何千球も打たせてもらった結果、
大学までろくに打撃練習をしてこなかった私もここまで成長することができました。
ショートとピッチャーの二刀流キャプテンが先頭を走り続けてくれたから、私たちは今ここに立っています。
さこありがとう!
さあ、いよいよ最高のエンディングの始まりです。
明日の12時30分、東伏見でお待ちしております。
歓喜の瞬間を分かち合いましょう。
応援よろしくお願いいたします!!
Today is the day.
長くてすみません。
4年 岡村雄太
たくさんの方の声援が私達の背中を最後まで押し続けてくださった結果、サヨナラ勝ちという素晴らしい結果になったと確信しております。
本当にありがとうございました。
今年度副将を務めます岡村雄太(経4 慶應義塾)です。
熱戦直後というのもありまして、いつも以上に暑苦しく長い文章となりそうです。(と言うよりなってしまいました。)
申し訳ありません。
あらかじめご了承くださいませ。
前回の田中優作(政4 慶應義塾)とは同じチームで野球を続けて10年目になります。
高校時代、三遊間を共に守った彼との関係も、今ではノッカーと外野手という関係に変化しました。
それでもこうして同じ目標に向けて熱くなれること、私もとても嬉しく思っています。
ここまでのブログリレー楽しく読ませて頂きました。
本当に4年間いろいろなことがありました。
入部直後、山本裕哉(経4 慶應義塾)と喧嘩したこともあれば、
志木高勢に裏で岡村さんと呼ばれていたこともあったみたいです。
それでもここまでこられたのは22人の同期がいつもそばにいてくれたからです。
本当に4年間ありがとう。
本当に支えられました。
今春の就職活動中、準硬式野球部とは?という質問に、
「野球にコンプレックスを抱えた人の集団です」
と答えたのは主将の猪砂(政4 立命館宇治)でした。
高校時代の私も野球にコンプレックスを抱えた人の1人でした。
私は慶應高校軟式野球部、俗に言う「なんや」の出身です。
心の何処かに後ろめたさがありました。
多くの普通部出身の同期が硬式で苦労していました。
ミズノプロのカバンがカッコよくて。
夜遅くまで煌々と光る日吉台のナイターが羨ましくて。
私は練習がしたいのに、必死で雨乞いする硬式のクラスメートがいて。
体の大きい硬式部員をすっと避けながら廊下を歩いたり。
高校3年間、なんやであることが私のコンプレックスでした。
7年前の高校入学直後。
普通部の同期が何人も硬式野球部へと進む中、私は自分の実力に限界を感じていました。
どうしても自分が主役でいたい私は、部員100人を超える硬式野球部に入部する気にはなれず、
アイスホッケーやトランポリンをしてみたり、
カラオケに入り浸ってみたり、
そんな日々を過ごしていました。
「体が小さく、パワーのない自分に野球で輝く場所はない」
「野球ってそんなに面白いものでは無かったな」
そう思っていた時、「暇ならキャッチボールでもしに来いや」と友人に誘われて行ったのが軟式野球部でした。
キャッチボールをしに来ただけのはずなのに5キロ走を走らされ、不貞腐れながら1時間かけて完歩し、
「軟式なのにこんなに走らされるなら面白くない、辞めよう」
そう思いながら一列ノックを受けていた私のところに、
白髪のおじいさん監督が近づいてきました。
頑固なおじいさん監督が毎日いる、とは聞かされていましたが、初めて会った日に1時間も長話をされるとは思ってもいませんでした。
何を話されたのか全く覚えていないのですが、
きっと「守れる内野手が足りないから入部してくれ」といった内容だったと思います。
春の県大会が終わるとそのおじいさんは私に「練習試合に連れて行くから普通部のユニフォームを持ってこい」と言いました。
人工芝のグランドで汚れることなくボールとバットを使って遊べれば十分!
そう思っていた私は丁重にお断りしたのですが、
まったく聞き入れてもらえず、
しぶしぶ週末に千葉の奥地まで行ったのを覚えています。
その練習試合の2試合目にスタメンで使ってもらって以降、
高校生活では打てなくても守れなくても全ての試合に出させて頂きました。
野球は勝っても負けてもとても楽しいものでした。
でも高校時代は達成感より悔しさが強かった。
今日もたくさん応援に来てくれた高校時代の仲間には、今でも申し訳ない気持ちでいっぱいです。
その悔しさが大きな糧となり、
野球を続けるエネルギーになりました。
月日は流れ、気が付くと私は準硬式野球部の最上級生になっていました。
どうしても負けられない春の早慶戦、1点負けの2死満塁。
誰もが岡村に代打をだせ!と思っていたあの場面。
進むべき道を見失い、路頭に迷っていた私を野球へ再び引き込んでくれたそのおじいさん監督は、
私にヒッティングのサインだけを送り、託してくれました。
試合後のスポーツ報知のコメントに「使ってくれた監督に感謝したい」といったようなことを話したところ、いろんな人から「ゴマをするのが上手いな!」と笑われました。
でもあのコメントは、すっと出てきた紛れもない本音でした。
だからこそ、
この秋、何としてでも優勝したいんです。
高校で2年間、大学で3年間、
いつもグランドに来てくれた、
このチームを変えてくれた、
僕を変えてくれた、
織戸監督を胴上げしたいんです。
それが監督にできる最初で最後の恩返しです。
明日、勝利すれば優勝が決まります。
野球の神様は僕らに最高に面白いエンディングを用意してくれました。
きっと「あとは自分たちの力でハッピーエンドに変えてみろ」と笑っています。
こんなエンディングにたどり着くまで、
本当にたくさんの方々にお世話になり、支えて頂きました。
毎試合応援に来てくださり、試合が終わると必ず声をかけてくださるOBのみなさん。
息子はとっくに卒業したはずなのに中津川まで応援に来てくださる稲山さん(H27卒)のお母さん。
半分以上、いや8割以上が誰のご父兄なのかわからないのに、たくさん声をかけてくださるご父兄のみなさん。
チーム改革の為ご指導くださいました山本部長。
熱心な指導でチーム打率を飛躍的に向上させてくれた嶋川コーチ。
現役時代そんな嶋川コーチの打席でホームスチールを試み憤死した矢田コーチ。
誕生日プレゼントのキャップを家の中でも大事に被ってくださる先輩や、
下手くそな自分に手取り足取り指導してくださった先輩方。
小さい頃、休みの度にキャッチボールをしてくれた親父。
親父がキャッチボールしか野球の練習方法を知らなかったおかげで、
16年間スローイングに苦労せずやってこられました。
小学生の頃からいつも試合を見に来てくれ、私が落ち込んでいる時もそっと支えてくれた、最近涙もろくなった母。
16年間何不自由なく、楽しく野球が出来ました。
バッティングセンターに行くと、私だけにではなく知らない小学生にもアドバイスしてしまう弟。
おまえのアドバイスがあったから打てました。
私達のプレーを陰で支えてくれた、縁の下の力持ち学生スタッフとマネージャー。
たくさんの方に支えられ、ここまでやってくることができました。
大変お世話になりました。
本当にありがとうございました。
そして、最後に、ここまでついてきてくれた後輩へ。
チャンスはいつか回ってくる、そんなことを思っていたら4年間あっという間に終わってしまいます。
部員80人を超えるチームで試合に出て活躍することはそう簡単な事でありません。
私自身も4年間でレギュラーになることはできませんでした。
「環境は周りが整えるものじゃない、自分が整えるもの」
「周りが英語しか話せないなら、日本語を覚えさせればいい」
これは川崎宗則選手の言葉です。
私は、チャンスは待つものではなく、自分で作るものだと思ってここまでやってきました。
内野手として試合に出られないなら、外野なら出れるんじゃないか、そう思って外野手になりました。
内外野ふたつのグローブを持って行き、シートノックをセカンドとセンター両方で受けていた時期もあります。
谷上さん(H28卒)や杉本さん(H28卒)が塁に出れば、「代走いきますか?」と監督に聞きに行きました。
監督から言われる前にベンチを出ていたこともあります。
場違いなのを承知で六大学のグアム遠征にも連れて行ってもらいました。
そうやってもらった数少ないチャンスを生かすため、
必死で準備して必死にプレーしてきました。
何とか出塁できるようになろうとひたすらファールを打ったり、
足が速くなりたくて往復30キロを毎日自転車で通ったり、
強い打球が打ちたくて夜な夜なジムに通ったり。
自分が打席に立つとしたら試合の終盤だと考え、
リリーフのピッチャーを中心にタイミングを合わせ、
ベンチにいる時から10人目の選手として試合に出ている感覚でいました。
試合で打席を貰えれば何とかしたいという一心でピッチャーに対峙し、
ランナーで出れば何とかしてホームベースを踏もうと思っていました。
その結果、高校最後の年の公式戦、
1本もヒットを打てなかった9番バッターが、
バットでYahoo!ニュースにのることができました。
自分のエラーで高校野球を終わらせてしまった私が、
試合後にたくさんの人からねぎらいの言葉をかけられるようになりました。
相手の一塁手が、
代走の私が走れないようにズボンを引っ張ってくるようになりました。
「スタメンで試合に出るんだ!」
みんながそう思ってこのチームに入ってきたと思います。
「代走の切り札になりたくて」
とか
「守備固めになりたくて」
なんて思って入ってきた人はいないと思います。
だから、
自分の可能性を信じて、
環境のせいにせず、
最後まで向き合って欲しい。
現状に満足したらそこまでです。
その先にきっと素敵な明日があると信じています。
慶應義塾の黄金時代を見せてください。
応援しています。
そして、いままでたくさんの思い出を本当にありがとう。
可愛いくて、うるさくて、人懐こい後輩たちに囲まれて過ごせた日々を誇りに思います。
最近「やっぱおっかむだわ!」とうるさい田口…商3 慶應義塾)。
最後まで敬語の使い方を理解してくれなかった有賀(商3 慶應義塾湘南藤沢)。
うるさいけど一番チーム想いな油科(環3 川和)。
練習量だけは半端無い石渡元就(経2 多摩大目黒)。
話の長い杉浦(政2 慶應義塾)。
常にケロッとしている頼もしい市野澤文太(商1 慶應義塾)。
いちいちうるさい下川(経1 慶應義塾)、出町(経1 慶應義塾)。
入部した頃はどうなってしまうのか心配でしかたなかった櫻井(経3 Dwight School London)。
なぜかいつでもどこでもそばにいる祥輝(文2 洛星)。
底抜けに明るい泉(政1 慶應義塾)。
名前を挙げだしたらキリがありません。
素敵な時間をありがとう!!
今なら言えます。
「なんや」でも「準硬」でも、
ここまで野球を続けてきて良かったと。
野球のおかげで成長できました。
野球のおかげでたくさんの仲間ができました。
野球のおかげでたくさんの思い出ができました。
そしていよいよブログリレーも最終回。
主将、猪砂雄介(政4 立命館宇治)の登場です。
彼とは全体練習になかなか入れなかった1年生の頃から、高校が練習を終えた夜、室内練習場でバッティング練習をするようになりました。
今ではリーグを代表する投手となった彼の球を何千球も打たせてもらった結果、
大学までろくに打撃練習をしてこなかった私もここまで成長することができました。
ショートとピッチャーの二刀流キャプテンが先頭を走り続けてくれたから、私たちは今ここに立っています。
さこありがとう!
さあ、いよいよ最高のエンディングの始まりです。
明日の12時30分、東伏見でお待ちしております。
歓喜の瞬間を分かち合いましょう。
応援よろしくお願いいたします!!
Today is the day.
長くてすみません。
4年 岡村雄太