10月9日
MAX145km/hのストレートと、落ちすぎてホームベースの遥か手前でワンバウンドするフォークボールを操るプロ注目の本格派右腕、近藤正崇(商4 慶應義塾湘南藤沢)より紹介を受けました大瀬裕太(商4 桐朋 写真中央)です。
思い起こせば彼がまだ野手だった頃、よく深夜まで室内練習場でマシン打撃を共にしました。今となっては遠い過去の記憶です。
さて、ラストブログということで書きたいことは多々あります。
私もここまでの皆の熱いブログ同様、同期・先輩・後輩への想いを書き連ねたいところではありますが、如何せん一人ひとりへの想い入れが強すぎます。
個人名を出していてはとても書き切れそうにないので、直接全員に伝えることにします。
ということで、直接お礼が言えない人への感謝の気持ちを書きつつ、月並みで恐縮ながら準硬式野球生活を振り返りたいと思います。
トミー=ジョン(Thomas Edward Jhon Jr., 1913-)と
フランク=ジョーブ(Frank Jobe, 1925-2014)。
皆さんはこの2人をご存知でしょうか?
両氏がいなければ私は今頃野球が出来ていないということを考えると、
2人は野球人生における私の命の恩人と言えるかも知れません。
1974年7月17日。
ドジャースの左腕、トミー=ジョンは左肘の内側側副靱帯を断裂する大怪我を負いました。
当時この故障はメジャーリーグで
「キャリア・エンディング・デンジャー」
と呼ばれ、同じ怪我をした投手達は皆引退を余儀なくされていました。
彼も再起を絶望視されていましたが、一縷の望みに賭けます。
チームドクターを務めていたフランク=ジョーブが考案した
「損傷した肘の靭帯を切除し、他の部分の正常な腱を移植する手術」
を受けたのです。
当時この手術の成功率は5%未満と言われましたが、2年間に及ぶリハビリを経てジョンは76年にメジャー復帰を果たします。
すると、この年に10勝を挙げカムバック賞を受賞。
その後も46歳で引退するまでに手術後だけで164勝(通算288勝)をマークし、
完全復活を遂げました。
以後、この手術は同投手の名をとって
「トミー・ジョン手術」
と呼ばれ、
メジャーだけでなく日本球界においても数多くの投手の選手生命を救ってきました。
一昨年の8月、私もこの手術を受けました。
長きに渡り変な投げ方をしてきたツケが回ってきたのでしょう、1年生の冬の自主練期間が明けてキャッチボールをしてみると、右肘にとんでもない激痛が走りました。
針を打ったり電気を流したり、
往復4時間かけて肘の権威に診てもらいに行ったり慈善活動をしたりと、
色々と試してみましたが、引き裂かれるような痛みは一向に引きません。
そうこうしているうちに、2年生の春リーグが終わってしまいました。
1年の秋リーグから試合に出させてもらっていた自分としては、この春こそはレギュラーを取ると意気込んで臨んだシーズンだっただけに、スタンドで応援している自分に無性に腹が立ちました。
「自分は何のために入部したんだ。このままでは何も出来ずに4年間が終わってしまう。」
そう思い、手術を受けることを決めました。
手術は無事成功。
しかし、
術後一カ月してギプスを外した際の、モヤシのように細くなり、全く曲げ伸ばしが効かなくなった右腕はまさにモヤシそのものでした。
あの時の落胆と絶望は今でも鮮明に覚えています。
あれから2年。
山あり谷ありでしたが、今は痛みもなくボールを投げ、バットを振ることが出来ています。
肘の怪我以来、それまでは綺麗事にしか聞こえなかった
「野球が出来ることの有難み」
を切実に身を持って感じております。
大好きな野球が出来ることに感謝しつつ、一昨年亡くなった故・フランク=ジョーブ氏への感謝と哀悼の意を胸に、残り少ない野球生活を全うする所存です。
以上、長々と拙い文章を失礼いたしました。
次回は、同じ外野手で苦楽を共にしてきた川崎竜志(経4 慶應義塾志木 写真左から2番目)に書いてもらいます。
写真は4年生の外野手の集合写真です。この4人のお陰で4年間頑張ってこれました。
特に彼には借りがあるので、いつか倍にして恩返しがしたいと思っています。
それでは、竜志よろしく。
耐雪梅花麗 経霜楓葉丹
4年 大瀬裕太
思い起こせば彼がまだ野手だった頃、よく深夜まで室内練習場でマシン打撃を共にしました。今となっては遠い過去の記憶です。
さて、ラストブログということで書きたいことは多々あります。
私もここまでの皆の熱いブログ同様、同期・先輩・後輩への想いを書き連ねたいところではありますが、如何せん一人ひとりへの想い入れが強すぎます。
個人名を出していてはとても書き切れそうにないので、直接全員に伝えることにします。
ということで、直接お礼が言えない人への感謝の気持ちを書きつつ、月並みで恐縮ながら準硬式野球生活を振り返りたいと思います。
トミー=ジョン(Thomas Edward Jhon Jr., 1913-)と
フランク=ジョーブ(Frank Jobe, 1925-2014)。
皆さんはこの2人をご存知でしょうか?
両氏がいなければ私は今頃野球が出来ていないということを考えると、
2人は野球人生における私の命の恩人と言えるかも知れません。
1974年7月17日。
ドジャースの左腕、トミー=ジョンは左肘の内側側副靱帯を断裂する大怪我を負いました。
当時この故障はメジャーリーグで
「キャリア・エンディング・デンジャー」
と呼ばれ、同じ怪我をした投手達は皆引退を余儀なくされていました。
彼も再起を絶望視されていましたが、一縷の望みに賭けます。
チームドクターを務めていたフランク=ジョーブが考案した
「損傷した肘の靭帯を切除し、他の部分の正常な腱を移植する手術」
を受けたのです。
当時この手術の成功率は5%未満と言われましたが、2年間に及ぶリハビリを経てジョンは76年にメジャー復帰を果たします。
すると、この年に10勝を挙げカムバック賞を受賞。
その後も46歳で引退するまでに手術後だけで164勝(通算288勝)をマークし、
完全復活を遂げました。
以後、この手術は同投手の名をとって
「トミー・ジョン手術」
と呼ばれ、
メジャーだけでなく日本球界においても数多くの投手の選手生命を救ってきました。
一昨年の8月、私もこの手術を受けました。
長きに渡り変な投げ方をしてきたツケが回ってきたのでしょう、1年生の冬の自主練期間が明けてキャッチボールをしてみると、右肘にとんでもない激痛が走りました。
針を打ったり電気を流したり、
往復4時間かけて肘の権威に診てもらいに行ったり慈善活動をしたりと、
色々と試してみましたが、引き裂かれるような痛みは一向に引きません。
そうこうしているうちに、2年生の春リーグが終わってしまいました。
1年の秋リーグから試合に出させてもらっていた自分としては、この春こそはレギュラーを取ると意気込んで臨んだシーズンだっただけに、スタンドで応援している自分に無性に腹が立ちました。
「自分は何のために入部したんだ。このままでは何も出来ずに4年間が終わってしまう。」
そう思い、手術を受けることを決めました。
手術は無事成功。
しかし、
術後一カ月してギプスを外した際の、モヤシのように細くなり、全く曲げ伸ばしが効かなくなった右腕はまさにモヤシそのものでした。
あの時の落胆と絶望は今でも鮮明に覚えています。
あれから2年。
山あり谷ありでしたが、今は痛みもなくボールを投げ、バットを振ることが出来ています。
肘の怪我以来、それまでは綺麗事にしか聞こえなかった
「野球が出来ることの有難み」
を切実に身を持って感じております。
大好きな野球が出来ることに感謝しつつ、一昨年亡くなった故・フランク=ジョーブ氏への感謝と哀悼の意を胸に、残り少ない野球生活を全うする所存です。
以上、長々と拙い文章を失礼いたしました。
次回は、同じ外野手で苦楽を共にしてきた川崎竜志(経4 慶應義塾志木 写真左から2番目)に書いてもらいます。
写真は4年生の外野手の集合写真です。この4人のお陰で4年間頑張ってこれました。
特に彼には借りがあるので、いつか倍にして恩返しがしたいと思っています。
それでは、竜志よろしく。
耐雪梅花麗 経霜楓葉丹
4年 大瀬裕太